HIBIKI第2章ケルト編の取材は、45日間に及んだ。
メインはアランであったが、ケルトの大自然を歩き撮るのも重要なミッションであった。
10日間かけて、アイルランドにある4つの国立公園のすべてを回った。
今に動き出しそうなオークの森、空を低く覆う雲と風、それらすべてがHIBIKIを古代のケルトにタイムスリップさせた。
とくに印象深く残ったのは、北西にある、「クローパトリック山」に登った時だ。
クローパトリックは、古きから今に受け継ぐケルトの聖地。アイルランドの富士山とも言われている。
この時の感動は一生涯忘れる事はないだろう。
それをディレクターズ・ノートに、叙情詩で書き留めたものをここに掲載する。
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僕は気がついたら大きな白馬に跨がって山を登っていた。馬を飾る調達品にはケルト文様が刻まれていて、その腹を蹴る僕の足には、銀色の鎧具が纏ってある。
クローパトリックを登るに意味など要らない。ここにいることが答えであり真理であろう。僕はケルトの風となり偉大な騎士となった。歩く道には花が喜び、けものたちも喜び吠える。その声は天まで届こう。
風は己の威力を世に知らしめようと、すべてを吹き飛ばそうとする。またお友達の雲は、彼を助けるべく激しい雨を降らす。
しかし、風は傲っていた。自分の威力に酔いしれて、一瞬のスキを見せる。
あまりにも速い己の流れに、空をすべて覆い尽くすことが出来ず、時折、空を太陽に譲ってしまう。
その瞬間、太陽は今かと、遠く下の街に、森に、湖に、光のシャワーを浴びせる。
しかし、彼女もすべてを一瞬では照らすことが出来ず、風のシャワーと混ざり合う。
僕は白馬の上からその光景を見た。なんと壮大でエキソチック!
神々の戯れに巻き込まれた僕は気づいたら、クローパトリックの頂上に立っていた。
今度は霧に包まれた静寂の世界。
突然、一匹の野生の羊が向こうからやって来ては一声泣いてみせる。
その音に、あ、と我に返る。白馬は消え、鎧も消えた。
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・4つの国立公園
1、(アイルランド北西) コネマラ国立公園
2、(アイルランド南西) キラーニー国立公園
3、(アイルランド北東) グレンヴェー国立公園
4、(アイルランド南東) グレンダーロッホ国立公園
アイルランドの自然の特徴として、東は緑豊かであるが、西に行くにつれ、岩が多くなって来る。
また、一年通して雨が多い為、地面は常に濡れていて、木の根元や岩には苔がびっしり張り付いている。
これが鮮やかな色彩を放ち、木と岩が今に動き出しそうで、人をファンタジーの世界へ誘い込む。
アイルランド西の都、ウェストポートから南へ車を走らせること1時間。
そこには古いオークの木が立ち並ぶ「エルフの森」がある。
その森に足を一歩踏み入れた瞬間、この世界ではなく、どこか異次元に迷い込んでしまったと思った。
ケルトに関連した数々の小説や映画で、木が動き出すけれど、この森に入ったら誰もがそう思うだろう。
HIBIKIは、ケルトの大自然と対話しながら撮影を進めた。
・妖精 〜理不尽を受け入れる力〜
HIBIKI 第2章ケルト編のもっとも重要なコンセプトが「理不尽を受け入れる力」である。
人類は遥か昔から大自然の脅威と共に生きてきた。時に突然やって来る大災害。人は大自然の前でここまで無力であるんだと思い知らされる。
大切な人を失い悲しむ。時にそれは怒りに変わることもある。しかし、いくら苦しんだところでどうにもならない。
最後は受け入れるしかないのだ。極めて理不尽な話だ。
また、他の民族に襲われ愛する者を奪われた上、住む地からも追い出され、人が到底住めないような辺境地にまで追いやられる。これも極めて理不尽だ。しかし、私たち先祖はこれらの理不尽を受け入れて来た。
ゆえ、強い。理不尽を受け入れる力とは、「相手」を許す力であろう。
このように世界の先住民族に共通しているものに「理不尽を受け入れる力」がある。
ともすれば、現代の私たちは、人が本来持っているこの強さ「理不尽を受け入れる力」がとても弱くなっているのではないかと思う。
自分と相反するものを受け入れることができず、すぐに攻撃してしまう。また正義を名乗った暴力が国と国、もっとミクロに見れば「自分」と「他人」の間で行われている。
真の平和とは、自分と違うもの(理不尽)を受け入れ、その調和に生きることではないだろうか。
昨年取材したオーストラリアのアボリジナルは、「善と悪」、どちらも畏れ敬むものとし、理不尽を受け入れ調和に生きて来た。
このように先住民族に伝わるメッセージには生きる叡智がいっぱい詰まっている。
これはHIBIKIの全編を通して、とても重要な要素である。
そして、ケルト人が大自然と共に生きる叡智のひとつに、「人」と「妖精」とのつき合い方がある。
ケルトスピリッツが今も色濃く残っているアイルランドでは、神は信じなくても、妖精は信じると人は言う。
妖精は「良き隣人(グッドネイバー)」と呼ばれないとすぐに怒るらしい。時には赤ん坊をさらったり、森で道に迷わせたり。
このように、ケルト人は、先祖から子孫へ、その地方に住むと言われる妖精の物語を数多く伝承して来た。
その物語には、「命」と「死」が描かれている。
これは、過酷な自然、その理不尽との付き合い方を学ぶ為に。「生きる」を学び、いずれ迎える「死」を学ぶ。学べば救われるのだろう。
悲しかったり、恐ろしかったり。嬉しかったり。このようにして「妖精」は生まれたのかもしれない。
今回、ケルトの農夫でストーリィテラーのトムの取材に成功した。トムは古い時代のケルトの生活様式を大事に、今を生きている。
トムに先祖から代々語り継がれてきた妖精の物語を、HIBIKIは記録した。
・アイリッシュ・ミュージック 〜歓喜〜
ケルト人は、戦いのイメージがあるけれども、本来、自然と平和を愛する民族とも言われている。
ヴァイキングやギリシア人・ローマ人など、他の民族の脅威に幾たびも晒されて来て、彼らは自分たちを守る為に戦わざるを得なかったのだろう。
また、ケルト人は戦いにおいて勇敢であった。名誉と勇気を示す為なら命を差し出す。これは輪廻転生、つまり生まれ変わりを信じていたからであった。
そんな彼らを古代ローマ人は「蛮族」と呼んで恐れた。
そして、険しい大自然の中での農耕と狩りと漁、生き抜くその厳しさ。
このように厳しい生き方を強いられる一方、それゆえ共に生きる感動も高らかであった。
ケルト人は、その歓喜を夜な夜な宴会を開き、酒を愛し、美食を愛し、詩と物語を愛した。
今もアイリッシュは言う、「僕たちはみんなストーリィ・テラーさ」と。
そして、彼らの歓喜を盛り上げるもっとも大事なものは、「音楽」だと言えよう。
このようにして、「アイリッシュミュージック」は、庶民の間で発展して来た。
HIBIKIは、アイルランドの北西の町、ルイスヴァーグで開催された「アイリッシュミュージック・フェスタ」を取材した。
また、アイリッシュミュージックのプレヤー、シンガー、そしてダンサー、多くのミュージシャンをフィルムに記録。
HIBIKI 第2章ケルト編は、アイリッシュミュージックの洪水に呑まれ、ケルティックの歓喜の波に揺れる旅でもあったと言えよう。 |