世界の12の先住民族の物語を紡いでいく旅。ドキュメンタリー映画「響き 〜RHYTHM of DNA〜」
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12の先住民族
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12の先住民族
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1-7 TRIBES
TIBET - チベット
取材コンセプト

今旅、響き最大の山場となる。

「一つの中国」

中国政府が掲げているスローガンである。

権力を行使して、すべてを支配したい国家と、自分たちの思想、伝統文化を守り、未来の子孫に繋いで行こうとするチベット民族との対立。

当局による激しい弾圧の緊迫状態が今もなお続く中国・チベットに、響きが入る。

響きが世界の先住民族の旅を続けて来て学んだ世界。

「ノンジャッジメント」

多数は「多数の役割」であって、多数ではない。

少数は「少数の役割」であって、少数ではない。

この世界に存在するあらゆるものは、すべて「役割」である。

先住民族をはじめ、少数民族が抱えるマイノリティー問題。

それは、僕たち人類が次なる進化を遂げる為の、重要な課題である。

響きは、旅を続けて来て、未来の希望を学んだ。

人も自然の一部である。

大自然を織り成す、あらゆるもののすべては、それぞれがエレメントとして存在し、互いの違いを尊重し合い、美しいハーモニーを奏でる。

しかし、人間だけが、その調和から切り離され、自分が何者かさえも分からなくなってしまった。

でも、今、僕たちが、出来ることがある。

響きは、世界の先住民族に、先祖代々から伝わる叡智を紡いで来た。

それらすべては、未来の子孫に向かうもの。

美しい地球の物語を、途絶えさせてはならない。

今旅、響きのすべてが問われるだろう。

響き第11章チベット編のテーマは、「問う」

響きが自らを問いながら、チベット民族に先祖代々から伝わる叡智を紡いでゆく。

(*すべてが中国当局の厳しい監視下に置かれる可能性があり、出発日、訪ねる場所、旅のルート、期間、取材内容など、非公開とさせて頂きます)

チベット

世界でも最も標高の高い国。

南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈(こんろんさんみゃく)、東はキョウライ山脈(きょうらいさんみゃく)に囲まれた地域。

5世紀に遊牧民がチベット王国として政権を成立し、7世紀には諸部族を統一して強大な国家として栄えた。

独自の宗教、チベット仏教と共に発展していった伝統文化を持つ。

・チベット民族

チベット民族(英語: Tibetan peopleまたはTibetans)は、ユーラシア大陸中央部のチベット高原上に分布する民族。
チベット語を話す。人種的にはモンゴロイドに属する。

総人口:約1000万人 
チョル・カ・スム三地方に600万人。うちチベット自治区に209万人。遊牧民約48%、交易商人と農民が32%。人口の約20%を占める僧尼はあらゆる階層の出身者からなっている(僧18%、尼層2%)

居住地域:中華人民共和国、ブータン、インド、ネパールなど4カ国
言語:チベット語
宗教:チベット仏教(国教)

チべットの旗・旗

中央の白い三角形は雪山を表し、「雪山に囲まれた地(カンジョン)」と言う意味である。

太陽は、チベットの民が自由を平等に享受し、精神的、世俗的な繁栄を手にすることを意味し、6つの赤い光線は、チベット民族の起源となった、6つの氏族(ミュドゥンテゥク)を象徴している。

赤と濃い青の光線が並んでいるのは、チベットの2つの守護神の堅い決意により、国の精神的、ならびに世俗的な伝統が護られていることを表している。赤はネチュン守護神、黒はシュリ・デビ守護神。

黄色の縁取りは、仏教がすべての場所で永遠に栄えることを象徴し、縁取りのない一箇所は、仏教以外の教えや思想にもオープンであることを示している。

・主な地域

チべット地図※アムド:馬の州ドメー(最もすぐれた馬はアムドの地から)

チベットの東北部。チベット(チベット高原)を構成する地方のひとつ。

中国の行政区分では、青海省全域および四川省アバ・チベット族チャン族自治州、甘粛省甘南チベット族自治州を合わせた領域にほぼ相当する。

アムド方言を話す。自称「アムドパ(a mdo ba)」。

他にオイラトのホショト部を中心とするモンゴル人や一部のテュルク系などが多数居住している。

現在も青海省には多数のチベット仏教寺院が残り、チベット人・モンゴル人の僧侶によって守られている。

※カム:人の州ドトェ(最もすぐれた男はカムの地から)

チベットの東部地方。元、明代中国の地理史料では、アムドとともに「吐蕃」の「朶甘」と一括して呼ばれた。

現在は中国チベット自治区東部・青海省東南部・四川省西部(甘孜州)・雲南省北西部(迪慶州)に分割されている。

東部のダルツェンド(康定)と、西部のチャムドが中心的都市である。

自称カムパ(=「カムの人」の意 チベット語)と称する。

※ウー・ツァン:仏法の州ウーツァン(最もすぐれた宗教はウー・ツァンの地から)

チベットの中部と西部にあたり、ヤルンツァンポ川流域を含むほか、西部地域はカイラス山山麓を囲み、北部は広大なチベット高原の大部分を占めている。

ウー・ツァンの南境界はヒマラヤ山脈。チベット民族の政治と文化の中心地で、ラサで話されるチベット語方言が共通語として使用されている。

また、亡命チベット人の共通語の大部分もラサ方言である。

チベットと中国の近代史

・ダライラマ13世の宣言

ダライラマ13世(トゥプテン・ギャツォ)1913年:ダライ・ラマ13世は、中国皇帝とチベットの関係は「後援者と聖職者の関係であってどちらかからどちらかへの従属に基づいたものではなかった」と明言された声明を発し「われわれは小さい、宗教的、独立国家である」との宣言を発した。

漢民族の独立回復をすることを宣言していた孫文、臨時大総統となった袁 世凱(えん せいがい)はダライラマに対し宣言を取り下げるよう要求、しかしダライラマは応じず、「チベットにおいて世俗と聖職の両面での統治の行使を目指している」考えを示した。

・ダライ・ラマ13世と近代化政策

1920年:デプン寺とイギリスの対立(ダライ・ラマ13世亡命中にイギリスが兵器、鉱山開発の申し出をした事による)
その後、英国主導のチベット近代化は進められた。

1921年:孫文はチベット人・モンゴル人・ウイグル人などを同化して中華民族としての単一民族国家を目指すことを明らかにしている。

1932年:ダライラマ13世、長江を国境とし中国の宗主権を認めることに合意。

・軍閥時代のガンデンポタン政府と中華民国

軍閥時代の間、中国はチベットに干渉する力を持つことができなかった。

1912年以来、チベット-中国間の交渉は英国が仲裁する場合のみに行われてきた。

・中国によるチベット侵略のきっかけ

1933年11月:ダライ・ラマ13世が死去。

以後、チベットと中国との間で直接交渉が再開。

中華民国はパンチェン・ラマ9世をチベットに送り返し、チベットの政治に中華民国の意思を反映させようとしたが、パンチェン・ラマ9世はラサ到着前に急死。

しかし、中華民国はそのまま駐蔵弁事官をチベットに駐留させることに成功している。

実質的な権限はほとんど無かったが、中華人民共和国が成立した1949年にラサ政府を全員退去させるまでこの部署が存在した。

この退去事件が中華人民共和国のチベット侵略のきっかけの一つとなっている。

1934年より1935年にかけ、長征によりカム地方を通過中の労農紅軍第四軍の支援によりチベット人人民共和国が設立されたが、紅軍の撤退とともにほどなく解体。

1942年:チベットは外務省設立。同年、アメリカ政府は蒋介石政府に中国のチベット政策に異議はないとした。また、チベットは日本に親密な態度を貫き、連合国による中国への武器輸送を拒み中立を保った。

1947年:チベット政府は使節団をインド、デリーで行われたアジア会議に送り独立国家と表明(公的集会におけるチベット旗の最初の出現)

1949年:中華人民共和国 建国(国共内戦で中華民国に勝利した中国共和党が中国を掌握)

1950年:英国政府は庶民院で「中国のチベットに対する宗主権を認める準備は出来ている。しかしチベットは自治権を尊重されていることだけは理解してほしい」と表明

同年:人民解放軍はチベットのカムドに進攻し、チベット軍の散発的な抵抗を破った(チベット侵略)

1951年:中国軍はチベット全土を制圧。人民解放軍がチベットに駐留したことでチベットは中華人民共和国の支配下に入ることになった。

中国共産党政府によるチベット併合後、チベット人による抵抗運動はことごとく弾圧され、多数の市民が大量虐殺の対象となった。

1949年に建国した中華人民共和国は、まず1949年から1950年にかけて中華民国の諸地方政権が支配していたチベット東部を掌握、ついで1950年にガンデンポタン治下のカム地方の西部に侵攻、翌1951年にはガンデンポタンを屈服させて(十七ヶ条協定)チベットの西部・中央部を制圧した(いわゆる西蔵和平解放)。

1955年、チベットの東部で勃発した抗中蜂起は1959年中央チベットに波及、1959年3月10日のラサ市民の蜂起、中国軍による鎮圧をへて、チベットの君主ダライ・ラマ、チベット政府ガンデンポタン、約10万人の難民がチベットを脱出し、チベットの全土が中国の直接統治下に組み込まれた。

チベット民族の文化と生活

チベット民族は、基本的に農業と放牧を主としており、ツアージボー川中・下流の両岸地帯と、青海省湖環湖地区は高原農業地区、四川省の高山峡谷と青海省の一部は、半農半牧地区である。

チベット民族地区の草原牧場は、中国全体の牧場の約四分の一を占め、中国の牧畜業の一大基地となっている。

仏教信仰を価値観の中心に据え、高原の自然環境に適応した独自のチベット文化を発達させて来た。

信仰心が厚く、宗教と生活が密接に結びついている。

・遊牧民の住居

遊牧民はヤクの長い尾の毛も交えて編んだ非常に頑丈なテントを作る。

これらのテントのうち最大級のものは100人〜200人の人間が泊まることができ、いくつもの分かれた部屋を有する。

ごく1部の資産家をのぞき一般の遊牧民は1ヶ所に長く留まることは決してしない。

テントの上の祈祷旗をかかげることは遊牧民にとってきわめて大切なことである。

付近の祈祷旗の数からどのチベット民族の野営地かを見分けることもできる。

・チベット民族とヤク

ヤクヤクは、カシミールのラダク県、チベット、甘粛(かんしゆく)省の海抜4000〜6000メートルの高地に生息するウシ科の動物。

高地で生活するチベット民族にとって、この大型家畜のヤクは他の何ものにも替えがたく、生きるためとても貴重な存在となっている。

ヤクはいかに厳しい環境下でも生きのび、自分の食物を見出すことができる。

雌ヤク(ディと呼ばれる)のバターはお茶に混ぜられて滋養にとんだ飲み物を作り出す。

遊牧生活では厳しい自然の中で人間と家畜が共存している。家畜の世話をするのは女性や子供達の仕事。

・穀物と野菜

主なる農作物は小麦、黒マメなど。

その他の農作物はトウモロコシ、豆、ソバ、カラシ、大麻等。杏、桃、梨、林檎、胡桃などの果実樹と同様、柳とポプラの木はごく普通に見うけられる。

苺、葡萄、大黄、キノコ類は豊富にはえる。

マニ石・マニ石

マニ石とはチベット語の経文が刻まれた石盤をいう。

チベット、ネパールなどのチベット仏教寺院や、山道で見られる壮大なチベット仏教独特のモニュメント。

・マニ車

マニ車(マニぐるま、摩尼車)とは、主にチベット仏教で用いられる仏具である。
転経器(てんきょうき)とも訳す。

チベット語ではマニコロと呼ぶ。「マニ」は如意宝珠の略で、単独では「宝珠」の意味。「コロ」はチャクラの意味。

マニ車円筒形で、側面にはマントラが刻まれており、内部にはロール状の経文が納められている。

大きさは様々で、手に持てる大きさのものがあれば、寺院などでは数十センチ、大きいものでは数メートルにも及ぶマニ車が設置されている。

チベット仏教の場合は、マニ車を右回り(時計回り)に回転させた数だけ、唱える時のと同じ功徳があるとされている。

聖地を巡礼する多くの信者達は小さなマニ車を手に持っている。

 

・砂曼荼羅

色砂だけで描かれる曼荼羅。

曼荼羅とは仏教の世界観・宇宙観を描いたもので、仏教の密教化の中で生まれたもの。僧侶の修行の一環として法要の前に造られ、法要が終わると破壊し川に流す。

カター・カター

カターの「カ」は口で、「ター」は布あるいは印(しるし)。誠心誠意、心からの敬意を表している。

つまり、カターを相手に渡すことにより、自分の心からの敬意を表すという挨拶の印なのである。

チベット及びチベット文化圏では、寺の参拝、ダライ・ラマ法王や高僧の謁見、宗教の儀式、知人・友人の送迎、子供の誕生日、結婚式、葬式など様々なシチュエーションで、カターと呼ばれる白いスカーフを挨拶しながら相手に渡す習慣がある。

一般にカターは白色が使われる。白は純粋な気持ちを表す。
この他、青、赤、黄、白、緑の五色のカターを宗教的の儀式や供養などの目的に応じて使用する。

カターを大きくわけると(良い材質の順に)、ナンゾ(Nanzod)、ソクダル(Sogdar)、バルゾ(Barzod)、アシェ(Ashi)、スプシェ(Supshe)、チゾ(Chizod)、ソタック(Sotak)、カチ(Kachi)の8種類がある。

カターの中で最高とされるのは、絹で作ったナンゾで、これにもいくつかの種類がある。

真ん中に運勢を強くするナムチュワンデンとその周りに八吉祥(タシタクゲー)、両端にチベット語で、「ニモデレ・ツェンデレ・ニツェン・クントゥ・デワタン・クンチョク・スムキ・タシーショク」(『昼も元気で、夜も元気で、いつもまでもの元気で、三宝の(仏・法・僧)ご加護がありますように』)という文字を描かれているナンゾが最高級のカターである。

こうした最高級のカターは、ダライ・ラマ法王や尊敬する高僧に挨拶に伺う時に用いられる。

・魔除けと祈りの旗「タルチョ」

チベットの家でみられる五色の旗はタルチョーと呼ばれる祈祷のための旗。

青・白・赤・緑・黄の色が、天・風・火・水・地を表している。

チベット民族は日常家の屋上、寺の屋根、山頂、峠、橋や水辺などに、経文を記した魔除けと祈りの旗「タルチョ(別名、ルンタ)」を掲げている。

小さな五色の布のタルチョは綱に数多く結ばれる。タルチョが一度風になびけば一度読経したことになるのだという。

・スポーツ

古代のチベットの習慣では、官吏は自分の家から必ず男を1人、5kmの徒競走に出場させなければならなかった。

重量上げならば自ら名のり出る出場者にこと欠くことなく、レスリングもまた人気のある競技である。

馬はチベットのスポーツの中で重要な役割を果している。

一定の環状のコースを走らせるのではなく、7km以上の距離を走らせてそのスピードを競う形の競馬がある。

乗り手なしの競馬もある。

また距離こそ短いものの、騎手がライフルや弓矢、槍などで標的をねらう騎射競技もある。

この特殊な競技大会は長い合間をおいて行われ、政府の俗官は一生に1度これに参加しなければならない。

また標的や距離を競う弓術大会もある。この大会には政府より賞品が出るため、官吏たちは世間への顔むけもあり、数ヶ月間を費やして腕を磨くべく練習に励む。

この弓術大会は、非常の際、いつでも官吏たちが軍隊に加われるよう訓練しておくという主旨のものであったが、後に伝統スポーツの中に組みこまれた。

チベット祭り

・ガンデン寺のセタン祭(例年7月下旬〜8月上旬)

ガンデン寺ラサの郊外を東に約50km、標高約4,200mの山(丘)の上に建つガンデン寺は、ラサの三大寺院の1つで、そのゲルク派の開祖ツォンカパが創建した総本山。

そこで毎年、チベット暦(陰暦)の6月15日に行われるお祭り。

当日は早朝から長い九十九折りの坂道を車で上がり、多くの巡礼者達に混じって1年に1度だけガンデン寺の堂内に掲げられる貴重なシルクのタンカ(セタン)と、大集会堂の外壁に掲げられる巨大仏画を見に出掛ける。

*ゲルク派・・ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの2大活仏を擁するチベット仏教の最大宗派

・ショトゥン祭:チベット仏教最大の祭典(例年8月上旬〜下旬)

見るだけで「悟りの種を得る」といわれる巨大なタンカ(仏画)を拝む、チベット文化の集大成とも呼ぶべき年に一度のイベント祭り。

チベット暦(陰暦)の6月30日にラサの三大僧院に数えられるデプン寺とセラ寺で幕を開ける。

ラサのみならずチベット全土から巡礼者が押し寄せ、ラサの街が巡礼者で溢れる。

チベット語の「ショ」はヨーグルト、「トゥン」は宴の意味。ショトゥンとは「ヨーグルト祭り」というのが本来の意味。

17世紀以前のショトゥン祭は宗教儀礼であった。

僧侶達には戒律に従い夏の間の一定の期間、寺の境内に閉じこもるヤルネ(夏安居)という修業があり、このヤルネの解禁日を祝って村人達がヨーグルトを用意して僧侶達に施した、というのがショトゥン祭の起源といわれている。

・イェルパ・ツェチュ祭(毎年チベット暦の7月10日)

ツェチュとは「(月の)10日」の意味。グル・リンポチェの生涯に関する12の重要な出来事はいずれも月の10日(ツェチュ)に起こったとされ、それらの出来事を記念するための法要が「ツェチュ」祭。

ツェチュの法要のほか、巨大なタンカ(仏画)のご開帳、チベット・オペラ(アチェ・ラモ)も上演される。

・デプン寺

ガンデン寺とセラ寺と共にチベット仏教ゲルク派の3大寺院の1つ。

正式名称は、チューデナムキツォボ・ペルデンデプン・チョータムチェレーナムパルギャルワ。漢字表記は「哲蚌寺」。

チベットの寺で最大で、最盛期には世界中のどの宗教の寺院・僧院よりも大きかった。

チベットの宗教

チベットの宗教は、主に8世紀に国教と定められたチベット仏教、ボン教、民間宗教の3種から成り、このほかにイスラム教、カトリックがある。

今日のチベット自治区にはチベット仏教寺院が1700カ所余りあり、寺院内に暮らす僧尼が約4万6000人いる。

ボン教の寺院は約88カ所、僧侶は3000人余り、活仏が 93人、信徒は13万人以上である。

イスラム寺院は4カ所あり、イスラム教徒は約3000人余り、カトリック教会堂は1カ所、信徒は700人余りである。

古代の文書によると、チベットの最も古い宗教ボン教は、西チベットのシャンシュンのシェンラプ・ミボを始祖とする。

・チベット仏教

チベット族が信仰するチベット仏教(ラマ教)は、仏教が7世紀にネパールとインドよりもたらされ、チベットに伝えられたあと、もともとあった土着のシャーマニズム的な要素を持つボン教との融合を経てしだいに形成された、独自の地方色を持つ大乗仏教である。

歴代チベットの王は、7世紀から仏教に基づく国作りを目指して、インドから直接仏教を取り入れていった。その過程で仏典の言語であるサンスクリット語の経典を正しく翻訳できる言語としてチベット語が確立されていった背景もある。それゆえに独自にチベット圏で発達していった仏教を総称してチベット仏教と呼ぶ。

仏教の3つの重要な教えである身・口・意に仏教のラマと呼ばれる仏の化身である活仏(お坊さん=ラマ)を尊崇することから、日本ではかつて俗称でラマ教と呼ばれたこともあるが、正しくは「チベット仏教」と呼ぶ。

チベット仏教圏で独自に発達を遂げた仏教。さまざまな導師の尽力により、一度ではなく徐々に伝来してきた背景があるので、いくつもの宗派に分かれているが、いずれもチベット仏教であることには変わりはない。

現在では、チベット仏教の4大宗派として、ゲルク派/サキャ派/カーギュ派/ニンマ派の4つに大分され、他に小さな宗派も多々存在する。最大の派であるゲルク派は、14世紀に宗教家ツォンカパにより起こされた宗教改革後に確立された最大派閥でもある。

仏教の最高指導者:ダライラマ、と政治界の指導者であるパンチェンラマを擁す派で、この派に属する主な僧院は6つある。

タール寺(青海省)、ラブラン寺(甘粛省)、デプン寺(ラサ)、セラ寺(ラサ)、ガンデン寺(ラサ郊外)、タシルンポ寺(シガツェ)。

・宗教信仰の自由

チベットの民主改革後、チベットの僧侶と俗人は、人身の自由と宗教信仰の自由を真に獲得した。

人々は僧尼になる自由があり、僧尼も還俗する自由がある。

寺院の僧尼は、民主選挙を通じ、民主管理委員会または民主管理小組を組織し、宗教事務を自ら管理し、仏教行事を自分たちで行っている。

統計によると、現在、チベットの僧尼は4万6000人であり、チベット総人口の1.7%を占めている。

・僧侶について

*ラマ(又はグル)
本来は「師」の意。直接の師、その宗派の開祖などを指す。一般的には僧侶のことをラマと呼んでいる。チベット仏教では、師であるラマと弟子の師弟関係は非常に重んじられ、ラマへの帰依をまず第一に説く。

*リンポチェ
高僧。活仏でなくとも学識の高い僧をリンポチェと呼ぶことがある。

*ゲシェ
仏法論理学僧の最高位。博士。僧の一番下の位であるタパからスタートして、何度も試験などを繰り返し、勝ち抜いた末にようやく到達できる位。

*ケンポ
僧院長。僧院で一番偉い人。

*アニ
尼僧。

*キャムグン・リンポチェ(尊い守護者)
ダライ・ラマのこと。ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされるチベット最高の活仏。チベット仏教の最高権威として、またチベットの政治的指導者として君臨してきた。現在のダライ・ラマ14世は1959年のインドへの亡命後、ダラムサラに亡命政府を樹立して活動を行なっていた。2011年3月14日、務めていた政府の長を引退。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット民族の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。

ダライ・ラマ14世

チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡である。

その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである。

チベット仏教の最高指導者であると共に、祭政一致であるため政治権力も併せ持つ。

法名:テンジン・ギャツォ Tenzin Gyatso
生誕:1935年7月6日(82歳)中華民国青海省同仁県タクツェル村(チベット アムド地方)
1989年ノーベル平和賞を受賞
受賞理由:非暴力によるチベット解放闘争と、チベットの歴史と文化遺産の保存のための、寛容と相互尊重に基づく平和的解決の提唱

ダライ・ラマ14世1935年、アムド地方(現在の青海省)の農家に生まれ、幼名をラモ・トンドゥプといった。

ダライ・ラマの転生者であるとされ1939年に中華民国青海省のチベット人居住地区タクツェルで発見された。

4歳の時にダライ・ラマ14世として認定され、1937年にラサに移され1940年2月22日に即位。

ラサでダライ・ラマとして教育されて成人し、50年から親政をおこなった。

1950年に中華人民共和国の人民解放軍がチベット東部を制圧(チャムドの戦い)。

51年には中国への併合を承認する協定に調印しチベットは中国領となった。

1953年に中国仏教協会の名誉会長となり、1954年に全国人民代表大会でチベット民族の代表として常務委員会副委員長に就任する。

1956年には西蔵地方政府で、西藏自治区籌備委員初代主任委員に選ばれ、周恩来のインド訪問に同行する外交活動などを行うも、1959年にラサで中国に対する大規模なデモが発生。中国軍と衝突し「チベット反乱」が始まった。

その対応に苦慮して、インド北部ダラムサラに亡命した。

ノーベル平和賞を受賞したことでその国際的影響力はさらなる広がりを見せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する人物とみなされるようになった。

ダライ・ラマ14世は、チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、政府の長を務めていたが、自身の政治的権限を委譲したいという意向を表明し、2011年3月14日に引退した。

ダライ・ラマ5世以来の伝統を終わらせる事になったのだ。

それ以降、ダライ・ラマ14世は、現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット民族の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。

ダラムサラ

亡命チベット人の首都ダラムサラ

面積: 27.6 km²
人口: 5.354万 (2015年)

インドのヒマーチャル・プラデーシュ州にある都市ダラムシャーラの一角にあるチベット亡命社会の中心地。

ダラムサラには、6000人以上のチベット人が生活をし、カンチェン・キション(雪有る幸福の谷)という場所に亡命政権の官庁街がある。

宗教・文化省、内務省、大蔵省、厚生省、文部省、情報国際関係省(外務省)、公安省など7つの省庁が並んでいて、その中心部に国会議事堂がある。

亡命政府は7つの閣僚からなる「カシャク」(内閣)があり、国民議会に相当する亡命チベット代表者議会による議会制民主主義の体制をとっている。

ダラムサラは、チベット亡命政権の各省庁の他、チベット仏教論理大学、チベット子供村(TCV)、チベット舞台芸術研究所(TIPA)、チベット医学・暦法学研究所(メン・ツィー・カン)、チベット文献図書館(TIWA)、ノルプリンカ研究所、ナムギャル寺院などがあり、チベット文化の中枢地となっている。

ダラムサラは、ダライ・ラマ法王の指導の下、チベット亡命政権をはじめ、6000人以上のチベット人が住み、チベット仏教文化の拠点となっているため、外国人は、ダラムサラのことをリトル・ラサ(Little Lhasa)と呼んでいる。

HIBIKI Color 赤:太陽 黄:月 白:宇宙 これらの色を合わせて「世界」を意味する。