世界の12の先住民族の物語を紡いでいく旅。ドキュメンタリー映画「響き 〜RHYTHM of DNA〜」
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12の先住民族
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マヤ
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1-7 TRIBES
MAYA ー マヤ
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取材コンセプト

マヤ・カレンダーゼロの発見に代表される高等数学。

20世紀の科学水準に匹敵する高度な天文学。

巨大なピラミッドの建造。

高度に発達した医療。

マヤの数々のテクノロジー、、、

神秘と謎に包まれた古代文明「マヤ」を、響きが旅する。

HIBIKI第8章マヤ編のテーマは、「Soul & Science 〜 魂と科学のハーモニー」

マヤはどのようにして、古代に、このようなハイテクノロジーを発展させて来たか?

もしかして、響きの「ある種の視点」が、この謎を明らかにするかも知れない。

それは、響きがこれまでの世界の先住民族を旅して、学んだもの、、、

「人も自然の一部であり、そう機能している」

このたったひとつのシンプルな世界から、「マヤ」が見えて来る。

マヤ人は観察力に富んでいた。よく観察していた。

気の遠くなるような時間をかけて、世代をいくつも超えて、観察し続けた。

それは、先祖から子孫へ、丁寧に、正確に伝え、そしてまた観察し、また次に伝える。

マヤの高度に発達したテクノロジーは、口伝のひとつのカタチではないだろうか。

そこには、自然を畏れ、敬い、人間もその一部として機能していることをよく知っていた。

観察することで、宇宙から、神々から、大自然から叡智を授かることになる。

それが、科学の本質ではないだろうか。

ともすれば、現代における科学は、ある意味、盲目的になってはないだろうか。

科学は、自然を克服するものでも、解明するものでもなく、自然との調和に生きる叡智であると思う。

目に見えるものだけを追っかけて、人だけが特別な存在であるかのような傲慢な立ち位置では、どれだけ優れた科学を持ったとしても、人類の過去の歴史が証明しているように、それは、やがて滅びに向かう。

科学とは何かを、マヤ人のスピリッツから紡いでみようと思う。

それが、HIBIKI第8章マヤ編の、ミッションである。

響きは、旅を重ねるに連れて、学び進化して来た。

HIBIKI第6章ネイティヴ・ハワイアンの旅では、「祈り」を学んだ。

そして、それは次のHIBIKI第7章アイヌの旅に生かされ、人が自然の一部として機能しているとは、どのような状態を言うのかを学び得た。

それは、「すべてが、ちょうど良いタイミングの中に置かれる」

人が大自然と調和する時、それは、神々の「時」の中に生かされるのだ。

そして、HIBIKI第8章マヤ。

マヤとは、メキシコ先住民の言葉で「周期」という意味。マヤ文明は、「時間の文明」とも言われている。

彼らは、自らを「マヤ=時の民」と称した。

HIBIKI第7章アイヌの旅で学んだ、「時」が、きっと今回の旅の「マヤ」に、生かされるのであろう。

マヤについて

マヤ人は、現代になっても、古代の風習を色濃く残している。

古の神々の働きや、世界の創造に関する古い言い伝えを忘れず、しかも祈りの中では、未だにマヤの神々の名前を、カトリック聖人の名に交え唱えているのである。

マヤ地帯(Maya Zone)

【マヤ人】

マヤ系先住民族とは、メキシコ南部から中央アメリカ北部にかけての地域に居住する先住民族。

ユカタン半島、メキシコ・チアパス州、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラスにまたがる地域。
(*マヤ地帯・Maya Zone と呼ばれている)

マヤ低地北部(熱帯雨林)、マヤ低地南部(火山帯)、マヤ高地の、三地域に分類される。

低地に住むマヤ人を、北部、南部ともに「低地マヤ」。高地に住むトウモロコシ農耕民を、「高地マヤ」と呼んでいる。

もともと、マヤ文明、マヤ人というまとまった一つの民族として存在しているわけではない。

文化と言語の一部を共有する、異なる多くの集団、社会を総称したもので、それぞれが、彼ら自身の伝統文化、歴史的なアイデンティティを保持している。

現在、マヤ人と呼ばれる人々は、マヤ諸語(30種類ほど)を話す人々のことである。

マヤ人の人口は、21世紀初頭では700万人と推定されていたが、今では、200万人ほどに減っており、主にユカタン北部とグアテマラに住んでいる。

現代のマヤ人の多くは、カトリック教徒であるが、台湾の原住民族と同様、キリスト教と融合しながらも、先祖崇拝のアニミズムが、今でも根強く残っている。

叡智に溢れ、考古学の常識を超えたマヤの人々が築き上げた文明は、巨大なピラミッドを建造し、ゼロの発見に象徴される高等数学をもち、また天文学にも優れていた。

中でも高等数学と高度な天文学によって作り上げられたとされる暦「マヤ・カレンダー」は、「時」を駆使したテクノロジーと言えよう。

天体の運行に関する哲学と宗教が、すべての基礎になっている。

【マヤの歴史】

マヤ文明は、現在のメキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズ、ユカタン半島、ホンジュラス、エルサルバドルを中心として栄えた、メソアメリカ文明に数えられる。

紀元は、紀元前1800年頃。滅亡したのは1600年代とされている。

先古典期(前1800〜後250年)、古典期(250〜900/1000年)、後古典期(900/1000〜16世紀前半)に大きく分けられる。

アステカやインカといった中南米の古代文明が広い領土を有する一大帝国を築いたのに対し、マヤは中米一帯に数多くの都市国家を築いており、全土を統一するような王朝は出現しなかった。

スペイン軍の侵略まで、ただの一度として同じ陸続きの外部勢力の支配下に入らず、独自の言語や文字を持ち、衰退後も残された人々は侵略に抵抗し、古代マヤの文化や伝統を守り続けた。

ユカタン半島のマヤ人が、最初にヨーロッパ人と遭遇したのは、1511年にスペインの難破船の生存者が浜辺に打ち上げられた時だった。

その後は、1517年にコルドバ、1518年にグリハルバ、1519年にはコルテスによる遠征を受け、最終的に1542年、ユカタン半島のマヤ人は、スペインの支配を受けることとなった。

しかし、現在も中米に生きるマヤの人々は、時代の変化を受け入れながらも、守ってきた自分たちの文化に対する自信と誇りを維持している。

【謎の古代文明】

考古学では、大文明が誕生する必要条件として、大河の辺(ほとり)という地理的条件、クルマ(車輪)の発明、金属(鉄)の使用の3つが挙げられているが、マヤ文明には、そのどれひとつも存在しない。

巨大ピラミッドの建造、華麗で壮大な神殿都市、ゼロの発見に代表される高等数学、20世紀の科学水準に匹敵する高度な天文学など、マヤが発明したテクノロジーの数々はいずれも、四大文明以上の科学水準を誇っていたとされる。

例えば、グアテマラの熱帯密林の中に、いまなお雄姿を残すティカル遺跡。

ティカル遺跡

紀元前600年、いまから2600年前から人が住み始め、紀元8世紀に絶頂期を迎えたマヤ最高の神聖都市ティカルは、その規模でも華麗さでも当時のヨーロッパ文明を遙かにしのいでいた。

ティカルは、都市と郊外と田園の3層からなり、その総面積は130平方キロ。

周囲を濠と土塁で守り、10万人にものぼる人が暮らしていたと考えられている。

これはルネッサンス期(15世紀)のヨーロッパ大都市をしのぐ規模である。

ティカルは湖からも、河からも、遠かったので、この人口を賄うために13個もの人口貯水池が作られた。

その中心に華麗な都。大小3000個もの真紅のピラミッド群と石像建築群が林立する都市。壮大な球技場とそれを囲む3つの高層アクロポリス。ピラミッドの石段の数も巨大建築物の色も形も、すべてマヤ的宇宙の法則によって決められていた。

その都市の真ん中に、ひときわ巨大な5基のピラミッドが天を突くようにそびえ立っている。

その第四ピラミッドの高さは70メートル。

巨大地震の多発地帯として知られるグアテマラでは、地震と火山噴火によって過去に何度も首都が破壊され、耐震構造の関係から、高さ30メートル以上のビルは、未だにない。

そのため、21世紀の今でも、この第四ピラミッドが、グアテマラでもっとも高い建築物である。

【階級構造】

マヤ人は単一の帝国としてまとまったことは一度もなく、古代ギリシャのように、都市国家に分かれて暮らしていた。

ただし、階級構造はどの都市国家においても似ていた。

マヤ人は紀元前3世紀頃から世襲の統治者を戴くようになり、ふさわしい世継ぎがいない場合を除き、その慣行は守られた。

王は自分の家族や身分の高い一部の市民とともに貴族階級を形成した。

貴族階級の下では祈祷師が神官階級を形作り、1年を通じて頻繁に行われる祭祀儀礼を介して王に助言し、人々を導いた。

こうした支配階級を除けば、マヤ人の大多数は農夫、細工師、人足といった「一般庶民」に属した。

さらにその下には、主に奴隷(もともとは戦争捕虜や犯罪者)から成る下層階級が置かれた。

【神官の役割】

マヤ社会の神官は今で言う医者や薬剤師の代わりを務めることが多く、薬草の処方から、現代のサウナに似た「発汗浴」に至るまで、ありとあらゆる治療を行っていた。

【医学】

マヤの医学は高度に発達していたが、その基本概念は、大自然との調和を乱した結果として、病気が発すると考えていた。

また、生物多様性に根ざした薬草を利用して来たのも特徴である。

病気や不幸を取り払い人々の安寧を、聖なる存在に祈願する伝統的なマヤ司祭の儀礼や呪文のなかには、カトリック信仰の要素が様々なところに見られる。

聖なる存在とは、霊的な祖先、父なる太陽、守護神たる地の主、母なる月、風、稲妻、山の峰の主など。

伝統的な治療の専門家には、伝統的出産介護者、薬草師、接骨師、脈による診断や占いを行う治療師、シャーマン、マヤ司祭などがいる。

マヤ司祭は、グアテマラのマヤ語で、「太陽の専門家」という意味を持つ。

伝統的出産介護者は、薬草にも詳しかった。

母子のマッサージや脈診も行い、病気治療の呪文を唱えることが出来る。

マヤの伝統的治療の全体像を知るには、彼女たちを調べるのが、最も近道である。

自分と運命を共にする動物(守護霊)、ナグアルまたはトナルが危害を受けた時に、病気になるとも信じられて来た。

また他には、邪視がある。

これは妬みを持ったり、もともと呪術的な力を持つ視線が強い人に見つめられることで、病気になる。

これらを人的病気と呼んだ。

また、熱と冷の二元論のバランスが乱された時に病気になる。

これを自然的病気と呼んだ。

また、空気の要素が身体に入ったときに、「アイレが入った」、「アイレで痛い」と言い、アイレの除去する。

何かものに驚いたり、転んだりすると、魂をその場所に落としてしまい病気の原因になると信じられていた。

近代、グアテマラの西部高地のマヤ先住民居住地域は、36年間(1961〜1996)にわたる内戦の戦場となった。

1996年、内戦の終結と共に、民族的アイデンティティの覚醒運動が本格化し、マヤ司祭への期待が高まった。

また、生物多様性に関する国際条約協定などの動きには、マヤの伝統的薬草の知的資源としての価値を見出すようになった。

また現代医学とも融合し、コスモポリタンな代替医療へ変化しつつある。

すなわち、マヤ医学とは、未来へと続いてゆくマヤ人の世界(宇宙)につながる身体についての「叡智」の体系なのだ。

【農業】

いくつもの農業技術を駆使し領域内の豊かな土壌から、得られるだけの恵みを得ていた。

焼き畑農法の「ミルパ」と呼ばれる輪作は、さまざまなメソアメリカ社会で活用されていたことが知られているが、とりわけマヤにおいてその効果を発揮した。

複数種の野菜を間作したのち、しばらく作付けせずに休ませるという方式をとる。

2、3年連続で作付けしたあと、6年ないし8年の休閑期を置くことがほとんどだった。

マヤの農民が育てたのは主にトウモロコシ、カボチャ、豆で、これらはまとめて「三姉妹」と呼ばれていた。

マヤ人の主食はトウモロコシ。

女たちは大人も子どもも,いろいろな方法でトウモロコシを調理していた。

平たいパンのような、今ではトルティーヤと呼ばれているものもあった。

バルチェというアルコール飲料にも、主要原料の一つとしてトウモロコシが用いられていた。

また、マヤ人は、カカオを加工し飲んでいた。

最初にカカオを食用にしたのは、今から約3500年前、マヤ文明より古いオルメカ文明だとされるが、チョコレート作りを形にしたのがマヤ人だと言われている。

グアテマラで発掘された、カカオの残滓が検出された壺などから、おそらく2600年前には、カカオの加工を行っていたと思われる。

マヤのチョコレートドリンクは、水やハチミツ、唐辛子、コーンミール等をブレンドして泡立てたようなスパイシーな飲み物で、祝祭や儀式の場で飲まれていた。

【狩猟】

マヤ人は、農業だけでなく、狩りや漁にも優れていた。

彼らは種々の道具と武器を頼りに、主に鹿や兎、さらには「ペッカリー」という、ジャングルに棲息する豚に似た生きものを狩っていた。

マヤ人はまた、革新的な投槍器を使っており、狩猟と戦争の両方でこれを活用した。

アトラトル「アトラトル」と呼ばれるその投槍器は、一方の端がカップ状になっている木製の細長い器具である。

カップに槍または投げ矢をはめ込み、素手で投げるのと同じ要領で投擲を行う。

すると器具の分だけ余計に遠心力が加わり、素手で投げるよりもはるかに速く槍や投げ矢が飛んでいくという仕掛けだ。

アトラトルを使って投げた槍は時速160キロ超のスピードが出ると言われており、マヤ人にとっては、大型で敏捷な獲物を狙う際の強い味方になった。

【マヤ・ブルー】

マヤ・ブルーが使われている壁画宮殿の壁、彫刻、写本や陶器の破片など古代マヤ文明の遺物には、この「マヤ・ブルー」が使われている。

この顔料はまた他のメソアメリカの文明でも見つかっており、鮮やかな青い色が特徴となるが、最大の特徴は何と言っても化学的、生物的な腐食に対して高度な耐性をもっていることにある。

数世紀前にマヤ・ブルーを使って描かれたものは、今日においてもまったく鮮やかさを失っていないのである。

ただ、壁画がどのように描かれたのか文献は残っておらずマヤ・ブルーは謎だった。

近年、研究が進み、マヤ・ブルーは植物染料、藍、パリゴルスカイトとして知られている粘土の一種からできていることがわかった。

インディゴという植物基盤の染料と、パリゴルスカイトという粘土のミネラル、この2つが熱で溶けて混ざり合い、顔料を形成。

インディゴを熱する過程の中で酸化され生成される、黄色いデヒドロインジゴが青いインディゴと混ざったときに、より緑色を帯びた特長的な鮮やかな色合いに成る。

マヤ・カレンダー

自然を敬い、人も自然の一部であると考えていたマヤ人にとって、大いなる宇宙や自然のサイクルと調和していくことは大変重要であった。

太陽の永遠の運行を非常に重んじていたため、神々に、永遠の太陽と豊かな生活のための豊穣の祈りは、欠く事の出来ない祭事としていた。

彼らは、太陽をはじめ、月も、金星も、その他の星々を含む大宇宙のすべてが、この大地を通して人間の運命を支配していると考えていた。

「大宇宙の鼓動(リズム)を知ることができれば、あらゆるものの鼓動(リズム)を知ることが可能となるだろう」

こうして、高等数学と高度な天文学によって作りあげた大宇宙のリズム(天空の動き)から、地上の未来を読み解くために発明されたのが、「マヤ・カレンダー」である。

また、古来よりあらゆる神官やコミュニティのリーダーを選出する時、未来や過去を読む時、重要な儀式を執り行なう日付、また農業に関わる作業の日などを、カレンダーに相談することは常であった。

長老や神官達が、それらを深く読み解き、占いや予言を行なってきたとされる。

マヤの予言者は、次のように述べている。

「時間とは棒のように直線的に進歩するものではない。寄せては返す波のように、過去と未来はある法則に基づいて繰り返すものである。すなわち、未来の中に過去があり、過去の中に未来があるのだ」

チチェン・イッツァ遺跡の天文台・エルカラコその言葉通り、マヤ・カレンダーは、過去から未来へ直線的に数字が並ぶ平面の紙でもなければ、個人的な思想や権力によるカレンダーでもない。

超古代より、先祖代々丁寧に語り継がれてきたもので、深い敬意をもって学ぶべき太古の教えである。

それは、どれくらい長い時間を、どれくらい多くの人が関わってきたのかは、私達の想像を遥かに超えてしまうほどである。

終わりもなければ始まりもない「継続した無限の動き」であり、生きている「宇宙のサイクル」そのものなのだ。

現代に至ってもマヤの先住民達は、多くを語ろうとはしない。しかし、真実のマヤ文化や先住民の伝統の教えは、少数の家系に何世代にも渡って秘密裏に口承で護られていた。

マヤ文明=マヤ・カレンダーとの認識が多いが、マヤ先住民の伝統では、カレンダーの知識や知恵は、その教えの一部分に過ぎないのだ。

【マヤ人の数の概念】

マヤ人は数を表記する際、自然数、位取り記数法、20進法を等の算術法を用いていた。

私たちが現在日本で使っているのは10進法。

20進法は20で位が変わって2ケタになるのだが、20でケタが変わる理由として、手の指と足の指を合わせると20本になるからだとする説が一般的である。

【マヤ・カレンダーの種類】

古代マヤ人の使っていたカレンダーは、17種類といわれている。

それら全ての基になっているのが、マヤの神聖暦ツォルキン暦(260日周期)と、太陽暦ハアブ暦(360日周期+5日)があり、最も重要なカレンダーである。

二つのカレンダーは、ある時点で同時にスタートし、共に時を刻むものである。

再び同じスタート地点に戻るのが13年後であり、このサイクルがマヤ・カレンダーの最小サイクルとなる。

小サイクルを理解して、大きなサイクルのカレンダーへとつながってゆく。

天体の周期とも深い関連があるので、太陽はもちろん、プレアデス星団と一致するサイクルにも同調している。

【月の暦(太陰暦)】

月のサイクルに同調することは、とても大切なことであると考え、マヤ先住民も古来より、女性に深く関わる暦として、主に太陰暦(月の暦)を使用してきた。

月のサイクルは女性の生理のサイクルと同調し、満月や新月は女性の新陳代謝と精神に影響を及ぼす。よって、妊娠や月経などのサイクルを調整するために太陰暦が使われていた。

【太陽暦(ハアブ暦)】

農耕に用いたとされる太陽暦である「365日(ハアブ)暦)」

1年(1トゥン)を360日(20日の18ヶ月)とし、その年の最後に5日のワイエブ月(ウェヤブ)を追加することで365日とするものである。

【神聖暦(ツォルキン暦)】

宗教的、儀礼的に用いられたとされる「260日(ツォルキン)暦」

一周期を260日(13の係数と20の日の組み合わせ)とした。

【カレンダーラウンド】

そしてワイエブ月を除いたハアブ暦(360日)と、ツォルキン暦(260日)の組み合わせが、約13年(13トゥン)ごとに一巡する。

これをベースとして、4サイクルの約52年を周期とするものが、「カレンダーラウンド」である。

この他、より大きな周期のカレンダーも複数存在していた。

【長期暦】

また、約5125年のかなりの長さとなる「長期暦」と呼ばれるカレンダーも使われていた。

ある暦元の日から何日経過したかを、石碑、記念碑、王墓などに刻むのである。

石碑に長期暦で日が刻まれた場合に、その日を特定できるという特徴を持っている。

マヤ長期暦は循環暦であり、それが直線状の終わりの日を指すわけではない。あくまでも一巡するだけである。

マヤ・ピラミット

【王を葬り、神々と交信する場所】

チチェン・イッツァ遺跡、ククルカンの神殿マヤ建築のなかで最も有名なのは階段ピラミッドであり、現存する10数基はマヤ文明の発展段階後期に建設された。

その名の通り、階段状に積み上げられた石の層から成る建造物で、平らに作られた頂上ではしばしば宗教儀式が執り行われた。

メソアメリカ文明の階段ピラミッドは、既存の塚や神殿の上に建てられ、暦の周期に基づいて繰り返し建て替えられたと考えられている。

古代マヤ人は、世界が天界・地上界・地下界に分かれていると考えていた。

地下界は「あの世」としてとらえられ、9層に分かれていると信じていた。

「9」という数字は、彼らにとって「地下=死」を示すものだったのだと考えられる。

ティカルの1号神殿をはじめ、パレンケの碑文の神殿や、チチェンイツァのククルカン(蛇の神)の神殿も、9層からなるピラミッドである。

これらのピラミッドからは王墓が発見されている。

このことは、王の死を「あの世」を意味する9層のピラミッドと重ね合わせているのだ。

ピラミッドは山をかたどったもので、人工的な山を象徴したものだとする考えもあり、天高く近づける場所が神聖だという意識が強かったとも思われる。

山には洞窟が多く見られるが、洞窟は神々が住み、「あの世」に行くことのできる唯一の道だと信仰されていた。

ピラミッドの頂上にある神殿の入口を山の洞窟に見立てて、洞窟の中にいる神々と交信したとも考えられる。

古典期後期(紀元600〜900年)には、神殿の入口を山の怪物の口として表現した神殿も多く現れる。

それは同時に洞窟を模したものでもあった。

つまりピラミッドは、王を葬り、神々と交信するモニュメントとして建設された可能性が高いと思われる。

【ティカル遺跡(グアテマラ)】

数多いマヤの遺跡の中でも最大の規模を誇るのが「ティカル」。

グアテマラの密林の中に巨大なピラミッドが聳え、周辺には無数の古代の都市の跡が散在している。

グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの大都市である。マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろにかけて繁栄を極めた。

マヤ最高の神殿都市ティカルは、5つの巨大ピラミッドを擁し、200以上の石碑、祭壇を備え、マヤ文明を代表するほどの規模を誇る大神殿都市であった。

紀元4世紀ころに最初の王朝が誕生し、次第に勢力を強めたが、6世紀になってカラクムルやカラコルといった周辺の有力な都市との対立が激化して一時は衰退。

しかし、7世紀の末にカラクムルを破って復興を遂げた。

その後、人口増加による環境破壊が進み、深刻な干ばつが重なることによって9世紀ころから衰退していったとされている。

ティカルは都市と郊外と田園の3層からなり、その総面積は130平方キロ。

周囲を濠と土塁で守り、王が政を行ったピラミッド群の周囲に10万人もの人々が暮していたとされる。

ティカルの大地は石灰岩で出来ているため、雨水はすぐに浸み込んでしまう。

そこで人々はピラミッドなどからの建造物から大地に至るまで町の全てを漆喰で塗り固めた。

漆喰は水を通さないので、水は貯水池に溜められ、大切に利用されていた。

これは「アグアダ」と呼ばれる革新的貯水システム技術の一つである。

ティカルは湖からも河からも遠かったため、この人口を賄うために13個もの人口貯水池がつくられた。

徹底した水の確保により、大河無き密林にありながら都市はどんどん発展していった。

しかし、その漆喰が文明崩壊の原因となる。

漆喰を作る為には石灰岩を燃やさなくてはならない。

その燃料となるのが周囲の密林の木々。水を確保するには森を破壊することを厭わなかった。

やがてティカルの森は消え、そのため土壌が流れ出し、作物が育たなくなっていった。

干ばつを乗り越えることが出来ず、巨大都市ティカルは崩壊していった。

【ワシャクトゥン遺跡(グアテマラ)】

ワシャクトゥンは、先古典期中期(紀元前900年ころ)に定住が始まった古いマヤの都市で、古典期(紀元250年〜900年ころ)を通して発展、拡大を続けた。

元々は独立した都市だったが、勢力を拡大した隣国ティカルとの争いに敗北。その後は衛星都市として存続したとされる。

ワシャクトン遺跡は、ティカルの北24kmに位置するワシャクトゥン村に隣接している。

紀元前342年の碑銘を持つ遺跡が発見された、マヤ初期の遺跡として知られている。

また、天文観測の目的を持つピラミッドがあることでも有名である。

ピラミッドの東側には3つの神殿が並んでいて、ピラミッドからその神殿を見て、太陽の昇る位置を測ることができるようになっている。

春分の日と秋分の日は真ん中の神殿から、夏至の日は左の神殿、冬至の日は右の神殿から太陽が昇る。

【カミナルフユ遺跡(グアテマラ)】

グアテマラシティの中心部から、西に直線距離で3kmほどの所に位置する、古代マヤ文明の中でも最も古いもののひとつと言われている遺跡である。

紀元前1000年頃から西暦1000年頃まで栄えた古代マヤ キチェ族の集落跡で、「先古典期中期」(紀元前300〜西暦300年)には神殿の山が築かれていた。

「カミナルフユ」とは、『キチェ=マヤ語』で”死者の丘”の意、すなわち墳墓であった。

建造物は石材ではなく土で造られた土の文化である。

また、テオティワカンの影響を受けていたとされる。
 
現在有名なマヤの遺跡の多くは、低地のジャングルの中にある古典期のものである。

これに対し、カミナルフユのあるグアテマラシティは標高1500mの高原地帯に位置するが、実は高原地帯の方が、低地ジャングルより早く文明が栄えたと考えられており、カミナルフユの歴史も先古典期の紀元前900年ころに遡ると考えられている。

カミナルフユが栄えた時期は、紀元前4世紀から紀元後6世紀という極めて長期間に及ぶ。

この場所は、マヤの信仰が今なお生きる、古代マヤの伝統を守る人たちにとっては聖地となっているため、毎日多くのマヤの人々が祈祷のための訪れている。

マヤの宗教儀式を行う場所が設けられており、シャーマンたちが火を焚いて祈祷を行っている。

【キリグア遺跡(グアテマラ)】

マヤ文化圏の南東端にあたる。

精緻な巨大彫刻を生み出したマヤの都として知られている。

「2012年に世界が終わる」というマヤの予言の元になった石碑がここにある。

マヤ最大の石碑であるステラEなど、現在、広場に残る石碑の多くは、キグリアのカック・ティリウ王が作らせたものだ。

また王は、アクロポリスを建設するなど都市を拡大・整備するとともに、自らの像を刻んだ石碑を次々に作らせた。

結果、キリグアは石碑の大きさと彫刻の質の高さで群を抜く遺跡となった。

キリグアの石彫で興味深いのは、獣形神(Zoomorph)と呼ばれる巨石だ。

この石の表面には、神の姿やマヤ文字が、隙間がないほどびっしりと彫刻されており、それはとても異次元的なイメージだという。

【チチェン・イツァ遺跡(メキシコ)】

聖なる泉・セノーテユカタン半島のマヤ古代都市の中で最大の規模を誇る後古典期(西暦900年〜)の遺跡。

ユカタンで最も力を持った、壮大なマヤ文明の複合都市。

チチェンとは泉が湧く、イッツァとはイッツァ族のことであり、春分・秋分の日に現れるククルカン(マヤ族の神とされている羽毛のある蛇)が、ピラミッドに降臨するといわれている。

この遺跡は、均整の取れた美しいピラミッド「ククルカンの神殿」で有名だが、その他にも、戦士の神殿、天文台、球戯場など、規模が大きく見応えのある建築物が多く、重要な場所となっている。

また、セノーテと呼ばれるマヤ史の古典期の「聖なる泉」がある。

これは、ユカタン半島の石灰岩の地下水路が、地盤沈下によってできた大きな穴から顔を出した自然の井戸のことである。

【ピラミッドとマヤ暦の関係】

ピラミッドの石段の数も巨大建築物の色も形も、すべてマヤ的宇宙の法則によって決められていた。

チチェンイツァのククルカンの神殿には、91段の階段が四方に作られた。

それぞれを足すと91×4段=364段となる。

そして一番上に一段高くなった基礎を設け、そこに部屋が設けられた。

つまり、全部合わせると365段になる。これは1年の日数と同じ数字となる。

そして、ピラミッドの階段の両側には、それぞれ26ずつくぼみがつけられている。

それは、マヤ暦の「260日(ツォルキン)暦」と「365日(ハアブ)暦)」を組み合わせた、「カレンダーラウンド(約52年周期)」を表している。

つまり、ククルカンの神殿は、古代マヤ人の暦を表現したものでもあったと考えられている。

【パレンケ(メキシコ)】

パレンケは、古典期(西暦300年〜900年)に於ける最も重要なマヤセンターのひとつで、チアパス州からタバスコ州にかけての広大な地域を支配した、強力な王朝の古代都市の首都であった。

同時期に、東部ではティカル、カラクルム、コパンといった大都市が栄えていたが、それらと肩を並べる存在だった。

その優れた建造物と彫刻の質は特筆され、数多く残された神聖文字から、貴重なパレンケの歴史について知ることができる。

1952年に、碑銘の神殿と呼ばれるピラミッドの発掘調査でパカル王の墳墓が発見されたことから、マヤ文明最大の発見の舞台とされている。

その石棺の中には緑色翡翠の仮面をかぶった王の遺体が安置されていた。

この仮面は値段がつけられないほどの貴重な発掘品と言われた。

また、「赤の女王」と呼ばれる女性の石棺も見つかっている。

発見当時、副葬品で飾られた女王が全身辰砂(しんしゃ)を撒かれ、真っ赤な状態だったことからそう呼ばれている。

*辰砂(しんしゃ)は硫化水銀から成る鉱物。別名、賢者の石、丹砂、朱砂などがある。

柱には鮮やかな漆喰彫刻や漆喰の神聖文字が施された遺跡なども見つかっている。

撮影プラン

HIBIKI第8章マヤ編は、2016年10月30日から、2016年12月31日までの、63日間にわたる長期の旅となる。

マヤ人が今も多くいる、グアテマラと、メキシコ・ユカタン半島がメインの取材地になる。

2ヶ国を跨ぐ為、二つの期間に区切る。

・グアテマラの旅 10月30日 〜 12月5日 37日間
・メキシコの旅 12月5日 〜 12月30日 26日間

まずはじめに、グアテマラに入り取材したのち、メキシコに移る。

先述したように、今に生きるマヤ人の多くが、カトリック教徒である。

しかし、台湾の原住民族同様、キリスト教と融合しながらも、民族のスピリッツを守り、継承して来た。

グアテマラ、メキシコにおける最大の祭り、「死者の日」

毎年、全土で、10月31日(前夜祭)、11月1日、2日と、開催される。

ラテンアメリカ諸国における祝日の一つで、日本でいうお盆のような日であり、先祖のお墓参りをする習慣。

死者の日は、カトリックのお祭りではあるが、マヤのスピリッツを、今に垣間見ることが出来るのだ。

響きは、グアテマラに着いたら、「トドスサントス・クチュマタン」という、地方の村にまっしぐらに向かう。

そして、マヤの死者の日を取材。

これだけを決めて、あとは、いつものように、響きのエンジン、「アジェンダ・レス」で旅する。

(*アジェンダ・レス:計画を一切持たない)

マヤの神々の導きあれ。

【トドス・サントス・クチュマタン】

グアテマラ北西部の村。

地域で独自の文化・伝統を継承して来た。

死者の日に、村の郊外を疾走する、「競馬レース」が開かれる。

「泥酔馬レース」と呼ばれ、お酒を飲んで走るこのレースは、落馬しても、それでも走り抜くのが習わしのようだ。

HIBIKI第8章マヤ編のクランクインは、トドス・サントス・クチュマタンの死者の日から。

HIBIKI Color 赤:太陽 黄:月 白:宇宙 これらの色を合わせて「世界」を意味する。