【王を葬り、神々と交信する場所】
マヤ建築のなかで最も有名なのは階段ピラミッドであり、現存する10数基はマヤ文明の発展段階後期に建設された。
その名の通り、階段状に積み上げられた石の層から成る建造物で、平らに作られた頂上ではしばしば宗教儀式が執り行われた。
メソアメリカ文明の階段ピラミッドは、既存の塚や神殿の上に建てられ、暦の周期に基づいて繰り返し建て替えられたと考えられている。
古代マヤ人は、世界が天界・地上界・地下界に分かれていると考えていた。
地下界は「あの世」としてとらえられ、9層に分かれていると信じていた。
「9」という数字は、彼らにとって「地下=死」を示すものだったのだと考えられる。
ティカルの1号神殿をはじめ、パレンケの碑文の神殿や、チチェンイツァのククルカン(蛇の神)の神殿も、9層からなるピラミッドである。
これらのピラミッドからは王墓が発見されている。
このことは、王の死を「あの世」を意味する9層のピラミッドと重ね合わせているのだ。
ピラミッドは山をかたどったもので、人工的な山を象徴したものだとする考えもあり、天高く近づける場所が神聖だという意識が強かったとも思われる。
山には洞窟が多く見られるが、洞窟は神々が住み、「あの世」に行くことのできる唯一の道だと信仰されていた。
ピラミッドの頂上にある神殿の入口を山の洞窟に見立てて、洞窟の中にいる神々と交信したとも考えられる。
古典期後期(紀元600〜900年)には、神殿の入口を山の怪物の口として表現した神殿も多く現れる。
それは同時に洞窟を模したものでもあった。
つまりピラミッドは、王を葬り、神々と交信するモニュメントとして建設された可能性が高いと思われる。
【ティカル遺跡(グアテマラ)】
数多いマヤの遺跡の中でも最大の規模を誇るのが「ティカル」。
グアテマラの密林の中に巨大なピラミッドが聳え、周辺には無数の古代の都市の跡が散在している。
グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの大都市である。マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろにかけて繁栄を極めた。
マヤ最高の神殿都市ティカルは、5つの巨大ピラミッドを擁し、200以上の石碑、祭壇を備え、マヤ文明を代表するほどの規模を誇る大神殿都市であった。
紀元4世紀ころに最初の王朝が誕生し、次第に勢力を強めたが、6世紀になってカラクムルやカラコルといった周辺の有力な都市との対立が激化して一時は衰退。
しかし、7世紀の末にカラクムルを破って復興を遂げた。
その後、人口増加による環境破壊が進み、深刻な干ばつが重なることによって9世紀ころから衰退していったとされている。
ティカルは都市と郊外と田園の3層からなり、その総面積は130平方キロ。
周囲を濠と土塁で守り、王が政を行ったピラミッド群の周囲に10万人もの人々が暮していたとされる。
ティカルの大地は石灰岩で出来ているため、雨水はすぐに浸み込んでしまう。
そこで人々はピラミッドなどからの建造物から大地に至るまで町の全てを漆喰で塗り固めた。
漆喰は水を通さないので、水は貯水池に溜められ、大切に利用されていた。
これは「アグアダ」と呼ばれる革新的貯水システム技術の一つである。
ティカルは湖からも河からも遠かったため、この人口を賄うために13個もの人口貯水池がつくられた。
徹底した水の確保により、大河無き密林にありながら都市はどんどん発展していった。
しかし、その漆喰が文明崩壊の原因となる。
漆喰を作る為には石灰岩を燃やさなくてはならない。
その燃料となるのが周囲の密林の木々。水を確保するには森を破壊することを厭わなかった。
やがてティカルの森は消え、そのため土壌が流れ出し、作物が育たなくなっていった。
干ばつを乗り越えることが出来ず、巨大都市ティカルは崩壊していった。
【ワシャクトゥン遺跡(グアテマラ)】
ワシャクトゥンは、先古典期中期(紀元前900年ころ)に定住が始まった古いマヤの都市で、古典期(紀元250年〜900年ころ)を通して発展、拡大を続けた。
元々は独立した都市だったが、勢力を拡大した隣国ティカルとの争いに敗北。その後は衛星都市として存続したとされる。
ワシャクトン遺跡は、ティカルの北24kmに位置するワシャクトゥン村に隣接している。
紀元前342年の碑銘を持つ遺跡が発見された、マヤ初期の遺跡として知られている。
また、天文観測の目的を持つピラミッドがあることでも有名である。
ピラミッドの東側には3つの神殿が並んでいて、ピラミッドからその神殿を見て、太陽の昇る位置を測ることができるようになっている。
春分の日と秋分の日は真ん中の神殿から、夏至の日は左の神殿、冬至の日は右の神殿から太陽が昇る。
【カミナルフユ遺跡(グアテマラ)】
グアテマラシティの中心部から、西に直線距離で3kmほどの所に位置する、古代マヤ文明の中でも最も古いもののひとつと言われている遺跡である。
紀元前1000年頃から西暦1000年頃まで栄えた古代マヤ キチェ族の集落跡で、「先古典期中期」(紀元前300〜西暦300年)には神殿の山が築かれていた。
「カミナルフユ」とは、『キチェ=マヤ語』で”死者の丘”の意、すなわち墳墓であった。
建造物は石材ではなく土で造られた土の文化である。
また、テオティワカンの影響を受けていたとされる。
現在有名なマヤの遺跡の多くは、低地のジャングルの中にある古典期のものである。
これに対し、カミナルフユのあるグアテマラシティは標高1500mの高原地帯に位置するが、実は高原地帯の方が、低地ジャングルより早く文明が栄えたと考えられており、カミナルフユの歴史も先古典期の紀元前900年ころに遡ると考えられている。
カミナルフユが栄えた時期は、紀元前4世紀から紀元後6世紀という極めて長期間に及ぶ。
この場所は、マヤの信仰が今なお生きる、古代マヤの伝統を守る人たちにとっては聖地となっているため、毎日多くのマヤの人々が祈祷のための訪れている。
マヤの宗教儀式を行う場所が設けられており、シャーマンたちが火を焚いて祈祷を行っている。
【キリグア遺跡(グアテマラ)】
マヤ文化圏の南東端にあたる。
精緻な巨大彫刻を生み出したマヤの都として知られている。
「2012年に世界が終わる」というマヤの予言の元になった石碑がここにある。
マヤ最大の石碑であるステラEなど、現在、広場に残る石碑の多くは、キグリアのカック・ティリウ王が作らせたものだ。
また王は、アクロポリスを建設するなど都市を拡大・整備するとともに、自らの像を刻んだ石碑を次々に作らせた。
結果、キリグアは石碑の大きさと彫刻の質の高さで群を抜く遺跡となった。
キリグアの石彫で興味深いのは、獣形神(Zoomorph)と呼ばれる巨石だ。
この石の表面には、神の姿やマヤ文字が、隙間がないほどびっしりと彫刻されており、それはとても異次元的なイメージだという。
【チチェン・イツァ遺跡(メキシコ)】
ユカタン半島のマヤ古代都市の中で最大の規模を誇る後古典期(西暦900年〜)の遺跡。
ユカタンで最も力を持った、壮大なマヤ文明の複合都市。
チチェンとは泉が湧く、イッツァとはイッツァ族のことであり、春分・秋分の日に現れるククルカン(マヤ族の神とされている羽毛のある蛇)が、ピラミッドに降臨するといわれている。
この遺跡は、均整の取れた美しいピラミッド「ククルカンの神殿」で有名だが、その他にも、戦士の神殿、天文台、球戯場など、規模が大きく見応えのある建築物が多く、重要な場所となっている。
また、セノーテと呼ばれるマヤ史の古典期の「聖なる泉」がある。
これは、ユカタン半島の石灰岩の地下水路が、地盤沈下によってできた大きな穴から顔を出した自然の井戸のことである。
【ピラミッドとマヤ暦の関係】
ピラミッドの石段の数も巨大建築物の色も形も、すべてマヤ的宇宙の法則によって決められていた。
チチェンイツァのククルカンの神殿には、91段の階段が四方に作られた。
それぞれを足すと91×4段=364段となる。
そして一番上に一段高くなった基礎を設け、そこに部屋が設けられた。
つまり、全部合わせると365段になる。これは1年の日数と同じ数字となる。
そして、ピラミッドの階段の両側には、それぞれ26ずつくぼみがつけられている。
それは、マヤ暦の「260日(ツォルキン)暦」と「365日(ハアブ)暦)」を組み合わせた、「カレンダーラウンド(約52年周期)」を表している。
つまり、ククルカンの神殿は、古代マヤ人の暦を表現したものでもあったと考えられている。
【パレンケ(メキシコ)】
パレンケは、古典期(西暦300年〜900年)に於ける最も重要なマヤセンターのひとつで、チアパス州からタバスコ州にかけての広大な地域を支配した、強力な王朝の古代都市の首都であった。
同時期に、東部ではティカル、カラクルム、コパンといった大都市が栄えていたが、それらと肩を並べる存在だった。
その優れた建造物と彫刻の質は特筆され、数多く残された神聖文字から、貴重なパレンケの歴史について知ることができる。
1952年に、碑銘の神殿と呼ばれるピラミッドの発掘調査でパカル王の墳墓が発見されたことから、マヤ文明最大の発見の舞台とされている。
その石棺の中には緑色翡翠の仮面をかぶった王の遺体が安置されていた。
この仮面は値段がつけられないほどの貴重な発掘品と言われた。
また、「赤の女王」と呼ばれる女性の石棺も見つかっている。
発見当時、副葬品で飾られた女王が全身辰砂(しんしゃ)を撒かれ、真っ赤な状態だったことからそう呼ばれている。
*辰砂(しんしゃ)は硫化水銀から成る鉱物。別名、賢者の石、丹砂、朱砂などがある。
柱には鮮やかな漆喰彫刻や漆喰の神聖文字が施された遺跡なども見つかっている。 |